七夕コンサートのこと(1)

静岡市美術館エントランスホール。
2012年8月24日(金)。
「旧暦七夕コンサート」。

開演して、演奏は進み最後のセクションになだれ込みました。

その、ほんの少し前のところ。

A-クイックと奏者の間では呼ばれる終わり方です。
舞台演出家なら、その終わり方を「カットアウト」というかもしれません。
今回のそれは完全に一線を画します。


「ダン ダン ダン ダン ダン!!!」
(た た け た け)

2秒あるかないかの静寂。

すぐさま、観客の拍手が、会場を包みます。

リハの時には、当然、その拍手は無い状態で、演奏していました。

段取り上は、その後、僕のギターソロです。

かなり、高音域でトレモロピッキングをするつもりで、フレイズを用意していました。
21日から、参加していたリハーサル。
2日目に、そのフレイズを用意しました。

拍手を聞いた瞬間。

「用意してきたフレイズをここで、弾くのは違う。」
と判断。
フレイズをあっさり全て、捨ててしまいました。

そうさせてくれる、本当に素敵な拍手でした。
今、終わっても良いのではないかと思うくらいでした。

「その拍手に答える演奏をすべき。」

まず、そう思いました。

「では、何を弾くか?」
「高音域での大きな音の演奏ではなく、深めで、浸透させるフレイズを。ゆっくり しずかに。」

「OK。」
問いかけ。
答え。
そして、了解しました。



ギターソロは、もう既に、静かに始まっています。
弾いている音よりも、会場の響きを最優先にします。

響きに良いも悪いも無いと考えます。
そこに、その響きがあると。
そのことが大切です。

パリの地下鉄の中だろうと、黒人街のクラブだろうと、劇場だろうとその姿勢は全くぶれません。

全ての場所は同じではないが、響きがそこにあることが共通していると思います。


ソロが始まって、1分30秒ほど、経ったくらい。

左側から、「カラン」という音が鳴りました。

日詰明男さんが、スティックを落とした音。
意図的か、無意識かは、僕の位置からは、確認出来ません。
それよりも、本当に綺麗なタイミングと音でした。

もし、用意していたフレイズを弾いていれば、スティックが落ちた音は、相対的に僅かなものですし、演奏に与える影響は違ってきます。

もし、用意していた大きな音で高音域の演奏をしていれば、そのスティックは落ちなかったかもしれません。

必然と偶然、出逢いの概念をそのスティックの音は鮮やかに吹き飛ばします。

起こった出来事を全て肯定的に捉えるポジティブな姿勢こそが即興演奏の醍醐味だと思います。



A−クイック手前の演奏は、リハよりも長めです。
長くなった部分は、その場でフレイズを紡ぎだしていました。


即興に入るための必要な身体と意識。

準備は既に完了。

弾いた音を聴く、それが次の音を呼ぶ状態。

理想的だけど、危うい状況。
一度、意識をとばした経験があります。
2008年11月でした。

制御不能と隣り合わせ。

前と違うことが、一つだけありました。

身体の技術を3年間、学び続けた。

「どこまで、意識が深いところまでいっても、身体が客観視すれば、制御は可能なのではないだろうか。」
その思いつきに着いていった3年がありました。
それで、良かったのだと思いました。




演奏はエンディングに向かっていきます。

京都芸術センターで、日詰明男さんがフィボナッチケチャックのワークショップを行っている2008年の記憶が頭をかすめます。

長い髪。鎖を巻きつけた重い服。

「はじめましょうか。たたけたけ。」





用意していた、フレイズはもう既に、全く無くなっていました。

リハの時とは違い、何故か、力強く突き進む演奏ではありません。
そのことが、何より素敵でした。

音が消えきるまで、静かで、深めで、どこまでも、浸透していくようなフィボナッチ・ケチャックの演奏でした。

ギターの音が消え、竹の音だけが、残ります。

静寂にもう一度向かっていきます。

小さなカケラが散りばめられ、だが、確かな位置を揺ぎ無く持っているオトの中で、僕は、「キレイだな。」と思いました。
夢美路丈旁
take-bow_yumiji
2012年8月26日(日)